内海好江, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=333401 / CC BY SA 3.0

#お笑い芸人
#東京都区部出身の人物
#過去のマセキ芸能社所属者
#胃癌で亡くなった人物
#1936年生
#1997年没
#荒川一門
#三味線奏者
桂子・好江(1955年。左が内海好江) 内海 好江(うつみ よしえ 、本名・奥田 好江、1936年2月23日 – 1997年10月6日)は、東京市浅草区(現・東京都台東区)出身の元漫才師である。
マセキ芸能社に所属し、内海桂子・好江の名で内海桂子と女性漫才コンビとして活動していた。
両親は夫婦漫才師の荒川小芳・林家染寿。
1945年にデビュー。
女剣劇や父娘漫才を経て、1950年の14歳の時に内海桂子と女性漫才コンビ「内海桂子・好江」を結成。
三味線教室へ通い毎日10時間以上の猛練習を行い、猛スピードで成長。
1958年、4度目の挑戦で『NHK新人漫才コンクール』で優勝。
その前年は、準優勝だったことを桂子から「好江のせいだ」と当たられ自殺未遂を起こしたことがある。
1961年には『文部省芸術祭奨励賞』を受賞し、1982年には『芸術選奨文部大臣賞』を受賞した。
長くコンビを組むうちに桂子との間に軋轢が生まれ、デビュー以来ギャラ配分が4:6だったことがきっかけで解散騒ぎに発展。
事務所などが間に入り解散は免れたものの、このことがきっかけで1人で仕事をしたいと思い至り、単独での番組出演をするようになる。
その後、長期間にわたってコンビ仲が悪く舞台以外は口も聞かない状態が続いたが、桂子が新聞社から依頼の原稿で「好江の成長を応援しよう」と思うようになり好江を認めた。
また、好江も桂子に対して「意地を張ったり反発したことはあったが、素直に心からの礼を言ったことがあっただろうか」と考え、芸術選奨文部大臣賞の受賞パーティーで桂子に対して初めて心からの礼を述べた。
以降、漫才の仕事や付き合い、ギャラ配分などが全て好江に任せられるようになり、桂子は漫才協団理事長就任で表に出ないようになった。
横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)で講師、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)では審査員を務めたのが縁で、同校出身で同番組にも出演したウッチャンナンチャンを自身が所属していたマセキ芸能社へ招いて芸能界入りのきっかけを作ったため、ウッチャンナンチャンは師匠と仰いでいる。
また、1990年代は『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)へ準レギュラーとして出演し、「ちょっと聞いてよ!おもいッきり生電話」のコーナーで江戸っ子ならではの歯に衣着せぬコメントをしていたことでも知られる。
その後も桂子とコンビで活動していたが、1997年10月6日、胃癌のため死去。
満61歳没。
桂子が見舞いに来た際に、「あと2年で結成50年なんだからしっかりしなさいよ」と声を掛けたのが最後の会話となった。
棺の好江に向けて「漫才やるよ」と声を掛け、漫才「名鳥銘木」を披露した。
墓所は東京都世田谷区幸龍寺。
^ 波乱万丈97年、好江さんと二人三脚 駆け抜けた4時代――「経験は全部芸になる」スポニチアネックス、2020.8.20(2020.8.20lastaccess) ^ a b c d e 『中居正広の金曜日のスマたちへ 【スペシャル】 』(2015年7月10日放送)の番組概要ページ – gooテレビ番組 2015年7月31日閲覧 ^ 『幸福づきあいいい話』 ISBN 978-4-569-57155-3 ^ 『笑組・ゆたかの「さて、今回のおはなしは」師匠のこと。
第19回』  一般社団法人漫才協会 まんにち新聞 2018年8月7日閲覧。

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