高橋尚子, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2725437 / CC BY SA 3.0
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鹿児島県徳之島にある1周31kmのコース「尚子ロード」に建つ石碑。
高橋 尚子(たかはし なおこ、1972年5月6日 – )は、日本の元陸上競技選手(女子マラソン)。
岐阜県岐阜市出身。
血液型O型。
2000年シドニーオリンピック金メダリスト。
女子マラソンの元世界記録保持者。
女子スポーツ界で初の国民栄誉賞を受賞。
愛称は「Qちゃん」。
現在はスポーツキャスター、マラソン解説者などで活躍している。
岐阜県出身。
1972年(昭和47年)5月6日、父親、母親ともに教育者の家庭に、二人兄妹の妹として生まれる。
2歳まで、母の実家のある高山市で過ごした後、岐阜市に移る。
中学から陸上競技を始め、岐阜市立藍川東中学校・岐阜県立岐阜商業高等学校・大阪学院大学商学部を卒業。
県立岐阜商業高校時代は800mの選手で県大会で岐阜県1位であったが、全国インターハイでは予選で敗退となった。
高校2年生の時に初めて岐阜県代表に選ばれて全国都道府県対抗女子駅伝に出場した。
その時の区間順位は47人中45位であった。
大阪学院大学時代は日本学生種目別選手権の1500mで優勝して全国で初タイトル獲得。
関西インカレでは中距離2種目で優勝して女子最優秀選手に選出された年もあるなど、800m、1500m、3000mの3種目で何度も優勝した。
学生日本一を決める大会の日本インカレでは、1993年、1500mで2位、3000mで3位。
1994年も1500mで2位、3000mで3位と両種目とも2年連続で同じ順位となり表彰台には上がった。
しかし、この4年間で高校時代の全国インターハイに出場できるレベルの選手から、学生トップクラスの選手になるまでに成長していた。
また、高橋は大阪学院大学陸上競技部で初めて日本インカレの表彰台に上がった選手である。
全日本大学女子駅伝、全国都道府県対抗女子駅伝などでも活躍した。
在学中、教師になるために母校、県立岐阜商業高校で教育実習を受けていたが、陸上を継続したい気持ちも強くあった。
実業団数社からの勧誘もあり、大学卒業後の自分の進路について、悩むことになる。
陸上を続けるなら、勧誘されていた企業ではなかったが、小出義雄監督率いるリクルートの門を何故叩かないのかと高校時代の恩師、県立岐阜商業監督、中澤正仁から助言を受ける。
大阪学院大学の監督の計らいで、富山インターハイの折に、金沢市内に泊まっていた小出監督と面接した。
社の方針で大卒は採用していないと、一度は断られたが、高橋の熱意が届き、夏のリクルート北海道合宿に参加できることになった。
その合宿で高橋の走りを見た小出は一目で素質を見抜き、正社員ではなく契約社員という条件ではあるものの、リクルートに入社することになった。
1995年リクルートに入社。
有森裕子、鈴木博美、志水見千子、五十嵐美紀など日本代表クラスの選手をずらりと揃えていたリクルートチームで駅伝メンバー入りすることが最初の目標であったが、入社1年目から駅伝メンバー入りすることができた。
1997年1月26日の大阪国際女子マラソンを初マラソンの舞台とする。
この時、小出は各種メディアに「有森二世」とイチオシの選手として紹介していた。
しかし中間点を過ぎた後、先頭争いから脱落してペースダウンとなり、初マラソンは2時間31分32秒の記録で7位に終わる。
1997年4月、小出がリクルートを離れ積水化学へと移籍する。
これにともないチームメンバーとともに積水化学へと移籍することになった。
1997年8月の世界陸上選手権アテネ大会の女子5000mの代表に選出され出場。
予選レースを通過するも、決勝レースの順位は13位だった。
また、この世界陸上選手権アテネ大会で、高橋が練習パートナーを務めていた先輩の鈴木博美が女子マラソンで優勝した。
これを沿道で応援していた高橋は鈴木の優勝を喜び感激する。
この大会を契機として本格的にマラソンランナーへの道を歩んでいくことになる。
1998年3月8日の名古屋国際女子マラソンでは、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていた。
その後30kmを過ぎてから、小出の「ここからいけ!」の合図に猛烈なスパートを…

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