誰か故郷を想わざる(たれかこきょうをおもわざる)は、昭和15年(1940年)発売の戦時歌謡曲。旧仮名遣いでは「誰か故郷を想はざる」と書く。
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、1940年1月20日、日本コロムビアから発売された。半年間で56万枚を売り上げるほどの大ヒットにより[1]、新興キネマより同名映画が製作された。 ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。
タイトルは「故郷を想わない人はいない」という意味の反語であるが、当初、こういった点が難解すぎてヒットしないと判断され、慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという。ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入された。慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣きして、満場涙に暮れたというエピソードもある。
内地の工場などでは「曲調が哀愁に満ちており士気が下がる」と禁止したところもあったという。四面楚歌の故事にもあるように望郷の念をかきたてるのは士気を下げるための有効な方法であるから無理もないが、この曲の人気には影響しなかったようである。
2年後の1942年、作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で「打倒米英」「陥したぞシンガポール」という唄が出たが、あまり受けなかった。

春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたなべ みのる)、1924年10月9日 – 1991年10月22日)は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』などが有名である。
人物
歌手となる
父・鬼佐久は農業を母・キヨに任せて蕎麦打ちの行商をやり、キヨは小学校で週2、3度裁縫を教え、夜は賃仕事の仕立物に精出して家計を助けていた。父は尺八を、母は三味線を嗜んでいた。父は蕎麦打ちの名人で、母は当地の花嫁衣装を一手に引き受けるほどの和裁の名手でもあった。春日には妹二人のほかに「ほとんど記憶にない」異母兄姉6人、異父兄姉が4人いた。
1930年に八幡村立八幡尋常小学校へ入学するが、この時期は「歌のうの字も知らない[2]」状態で、人からうまいといってほめてもらった記憶もなかった。この頃、村に時折来る旅芸人の少年たちに憧れ、太神楽の一座に入ることを夢見るが、母の反対にあって断念。尋常小学校時代は機械作りの好きな理系少年で、本人曰く「そのころでは、ごくありきたりの腕白坊主」であったが、当時の校友によると「大変な腕白」であった。

1937年に旧制福島県立会津中学校へ入学し、片道1時間をかけての汽車通学中にエクボの目立つ少年として女学生たちの注目の的となる。在学中に町で見た『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』が「えらく流行っている」のを知り、ラジオでも聞き覚えて口ずさんだところ、父に叱責されるが、懲りずに学校で広めて仲間と大合唱。しかし、歌に関してはそれ以外は「相変わらず、これといった話題もない」ままに過ぎ去る。
秋に狭心症の悪化により父が死去。春日曰く、父・鬼佐久は「そりゃ、もう実に、名前のように厳格でこわい人」で、残るのは叱責された記憶ばかりであった。1939年3月に稼ぎ手が一人となった家計の負担を減らすため、旧制会津中学を中退し、母の心づくしの10円札2枚を手に上京。
6月にすでに貴重品であったおはぎを奢られに友人宅に徒歩で向かう途中、浅草六区を初めて通り、常磐座でクラシックの正統派・藤山一郎のステージを見ておはぎの味も記憶に残らないほどの衝撃を受け、音楽で身を立てようと思い決める。少年時代の田舎廻りの旅芸人への憧れが初めて見た歌謡ショーで目を覚まし、歌手になること以外に我が進むべき道はないと決めてしまった。この歌謡ショーの出演者は藤山のほか、ハットボンボンズ、田谷力三、笠置シヅ子等、指揮は服部良一という顔触れであった。このショーから受けた感動に加え、多くの人を集め、魅了する存在になることが「今の貧しさから抜け出す近道だ」と考えたのもあった。早速受けた東洋音楽学校の試験にも合格し、兄夫婦の反対を押し切って器楽科に入学。器楽科を選択したのは音楽教師の免状がとりやすいと聞き、「先生の資格があれば、将来、生活の安定はたやすい」と考えたためだが、ほどなく声楽科に移る。学ぶうちに歌の魅力に取り憑かれ始めるが、学徒徴用令により、暮からは三鷹の中島航空機製作所通いの身となる。流行歌の歌い方を身につけるべく、東京声専音楽学校に転校。転入に際して受けた試験では、「いい声してますね、渡部くん」と褒められ、ムーラン・ルージュ新宿座で初舞台を踏むが、洋楽は敵性音楽として禁じられ、僅かに歌えるのは軍歌ばかりの状況が続く。

秋頃にはかねてから恐れていた召集令状がついに届き、卒業後は会津若松陸軍第29連隊に入隊。半年の訓練の後に広島に移動し、宇品港からフィリピンへと向かう途中で座礁。台湾で足止めとなり、その地で敗戦を迎える。
1945年11月に復員すると、終戦後の1946年春に一旦帰郷して会津の運送会社に当座の職を得るが、10月半ばに「何をするにも、やっぱり東京だ」との思いに駆り立てられて再上京。その後はムーラン・ルージュ新宿座に戻り、渡部勇助の名で本格的に歌手活動を開始。1947年7月にキングレコードの第1回歌謡コンクールに応募し、細川潤一作曲の『涙の責任』を歌う。2000人を越す応募者の中から男性としては2人[3]のみの合格者に入り、準専属歌手となる。「澄んだ美しい高音」に注目したキング専属の作曲家である細川が指導を買って出、レッスン室に通う日々が続く。歌川俊の名で準専属歌手となり、これを機にムーラン・ルージュを退団。準専属歌手は無給待遇であったため、新人の登竜門といわれた新宿の聚楽への月に2、3度の出演以外で収入の道はなく、衣食にも事欠く暮しが続く。少しでも早く稼ぐため、当時大流行のジャズを学ぼうと横浜に行く。元ジャズシンガーの米軍将校夫人に渡りをつけ、下働き兼生徒とはなったものの、ジャズは「肌に合わない」と悟る結果に終わる。

当座の勉学資金を稼ぐため、進駐軍のPX商品を歌謡関係者に売る闇商売に手を染める。重なる失意の中で秋に一旦帰郷はするが、暮に再び上京、再び聚楽の舞台に立つ。1949年春に高橋掬太郎作詞、上原げんと作曲の『燕来る頃』で初のテスト吹き込みをするが、新譜会議で不採用になる。オーディション合格組の男性がワンコーラスずつ歌う上原作曲の『ラッキーボーイ』もまたお蔵入りとなり、赤貧の日々はさらに続く。お蔵入りの理由としては、会津訛りが強くて低音が不十分、江口夜詩には「声がどうも華奢」と評された。他の専門家にも「唱歌みたい」「声に艶がない」と貶された。作詞家の矢野亮曰く、当時のキングでは岡晴夫・小畑実・林伊佐緒等のベテラン勢に加え、津村謙・若原一郎と高音の美声が魅力の有望な若手も活躍中で、新人・渡部実にまでは手がまわらなかった。
また、この年の夏にはキングに内紛があり、師の細川が人員整理の対象となった。それに加えて、戦後の復興途上でレコード界は物資が不足し、レコード屋の多くも戦災から立ち直っていなかった。春日はその後、藤山一郎のレコードを買い込んで日本語の発音を自ら猛特訓したほか、雨の日も風の日も多摩川の河原で発声練習をした。改めて専属となり、毎日舞台に出るようになった聚楽で、ピンチヒッターとしてたまたま出演した江口の門下生である桧坂恵子[4]と知り合い、意気投合。細川の一身上の都合からレッスンを継続できなくなり、やがて恋仲となった恵子と細川の仲介により、江口に師事。江口の家に毎日のように通い、掃除をしたり肩を揉んだりしながら、曲を作ってもらえるよう願い続けた。家出を決行した恵子と、鍋一つない下宿で事実上の結婚生活をスタート。この頃、先輩歌手・三門順子の前座歌手となり、鞄持ち、写譜、時にはアレンジ係を兼ねての地方公演生活が続くが、心無い野次を飛ばされて一曲も歌えないことも少なくはなかった。

Wikipediaより引用

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