一橋治済(1751–1827)は、将軍にはならずとも「影の将軍」として幕政を操った人物である。彼の最大の野望は、自らの子・徳川家斉を将軍に就けることであった。そのために治済は、田沼意次や松平定信といった権臣や有力候補を翻弄し、巧妙な陰謀を仕掛けた。

まず注目すべきは、将軍家治の世子・徳川家基の急死である。1779年、わずか18歳で世を去った家基の死は「田沼意次の毒殺」と噂されたが、実際には治済が真の黒幕だった可能性がある。なぜなら、家基がいなくなれば、自らの子・豊千代(のちの家斉)を将軍に擁立できるからである。またその数年前、家基と並ぶ将軍候補だった田安家七男・賢丸(松平定信)が白河松平家に養子入りさせられ、将軍継嗣の資格を失った事件も、治済と田沼の思惑が絡んでいたとされる。大奥の有力側室・お知保の方も動き、定信を遠ざけることで治済の子を後継にする環境が整えられたのである。

その後、1784年には田沼意次の嫡子・意知が城中で暗殺され、1786年には将軍家治が急死する。いずれも「田沼の黒幕説」が流布したが、実際には治済や反田沼派が巧みに噂を利用し、田沼を失脚へと追い込んだとみられる。そして1787年、15歳の家斉が将軍に就任すると、治済は実父として後見に立ち、政権の実権を握った。

治済はさらに松平定信を老中首座に据え、寛政の改革を進めさせた。だがその目的は改革そのものではなく、田沼派を一掃させることにあった。やがて定信が「尊号一件」で将軍家斉と対立すると、治済はすぐに彼を見限り失脚させた。つまり治済にとって田沼も定信も、利用し尽くせば「用済み」として捨てる駒に過ぎなかったのである。

その後も治済は長く権勢をふるい、贅沢三昧の生活を送りつつ、幕政に隠然たる影響力を持ち続けた。田沼・定信の盛衰の陰には、常に治済の暗躍があった。彼の権謀術数によって将軍後継は操作され、江戸幕府中期の政治は大きく翻弄されたのであるが・・

作曲 秋山裕和
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