Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.2
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
http://www.coolhand-records.com/Hip-on-Showakayo-vol.2.html

いしだあゆみ – ひとりにしてね
LP : ブルー・ライト・ヨコハマ
Columbia YS-10060-J
1969年4月25日リリース。

作詞 : 橋本淳
作曲編曲 : 筒美京平
ファーストアルバムに収録。

昔ウチの親父がこの曲を聴いていて「たそがれとりやがる」
と呟いた。それは、いしだあゆみに向けてではなく
一緒に聴いていた私に向けてだった。うふふふ

音楽用語にドローン (Drone) という言葉があり
持続低音を指す。簡単に説明すると「ん~~~~」と
低い音を言うと、言う側も聴く側も脳が振動して
サイケデリックな催眠効果が発生する。
いしだあゆみの独特な歌唱法に注目して頂きたい、
例えば一般的に彼女の歌い方を真似るときに
「街の灯りが とてもきれいねヨコハマ ブルー・ライト・ヨコハマ」
まん ちん のん あん かん りん がん とん てん もん
きん れん いん ねん ヨン コン ハン マン
ブルー・ライト・ヨコハマ~~ン
といったように、小さく「ん」を入れてドローン効果を出す。
いしだあゆみの韻を踏むドローン歌唱法はサイケデリックな
催眠効果を発生させているのだ。
彼女は初期の歌では、このような発声方法で歌っておらず
曲を書いた橋本淳と筒美京平のコンビが仮に意図的に
この発声方法で歌わせたのであれば、昭和歌謡史において
画期的な発明である。なお本件「ひとりにしてね」では
ドローンを使わず、意図的にハスキーな艶声でフェミニンを
放出している。これで解るように、下積みの長かった
いしだあゆみはヴォーカリストとして変幻自在の
表現方法を習得しており、ビクターからコロムビアに移籍
した際に大きくイメージチェンジを図ったのが解る。

ドローン (Drone) とは、持続低音の事で音楽における多声性の
テクスチュア (音構成原理) を形成する方式の一つで、「うなり音」を
意味し、和声には組み入れられない非和声音の一種であるが、
「最初は和声音であるが、和音が変わって非和声音になっても続く」、
「後で和声音に解決する」という点が他の非和声音とは異なる。
持続低音は和音を元に引き戻す強い和声上の効果がある。
ドローンを使用して演奏する楽器として、次のものがある。
鍵盤楽器:ハルモニウム
擦弦楽器:ハーディー・ガーディー、ヨウヒッコ
撥弦楽器:シタール、マウンテン・ダルシマー、ストラム・スティック、大正琴
吹奏楽器:フルス (ひょうたん笛)

昭和歌謡を代表する作詞家なかにし礼は1971年に
いしだあゆみの妹の元歌手、石田ゆりと再婚。という事は、なかにし礼
の姪である森田童子 (本名 : 中西美乃生 なかにしみのぶ) と
いしだあゆみは親戚になった。1971年から1972年までの1年間、
デビュー前の中西美乃生 (森田童子) は
なかにし礼宅で石田ゆりと同居していたので、いしだあゆみは
学生時代の森田童子を知っていたのだ。

いしだあゆみ (1948年3月26日生れ)
日本の女優、歌手、元フィギュアスケート選手。
イザワオフィス所属。身長163cm。
本名・別名義:石田良子 (いしだよしこ)。
大阪府池田市出身。4人姉妹の次女として長崎県佐世保市で生まれた。
実家は大阪府池田市で3代続いた喫茶店「フジヤ」とパン屋を営み、
商店街”サカエマチ1番街”で育つ。
5歳からフィギュアスケートを始め、選手として活躍したほか、
児童劇団でも活動し、「ともだち劇場」で泉田行夫の指導を受けた。
1961年には梅田コマ劇場で初舞台を踏む。
1962年、14歳で上京していずみたくに師事。4月20日にソノブックス社
よりソノシート『夢みる恋 (原題:Walkin’ Back To Happiness)』が
本名の石田良子名義でリリースされ、その後も数枚のソノシートが
発売された。1964年4月に現在のいしだあゆみに改名し
日本ビクターから『ネェ、聞いてよママ』でアイドル歌手として
デビューした。同年から翌1965年にかけては『七人の孫』に
森繁久彌の孫役で出演するなど、劇団出身の演技力を活かして
歌手と女優の二足のわらじで芸能活動を開始した。

芸名について、永六輔は自著『芸人その世界』で「名づけ親と
いうことになっているのは『いしだあゆみ』……」と述べているが、
永は自身が芸名の名付け親か否かについては明記せずぼかしている。
いしだ自身は「あゆみ」の芸名について、永がラジオパーソナリティ
を務める『土曜ワイドラジオ TOKYO 永六輔その新世界』の
ゲストコーナー「乙女探検隊が行く〜関東新地図」に出演した際に
「お世話になった方の娘さんの名前からいただいた」と述べ、
永が名付け親という説を否定している。

デビューから4年間は23枚のシングルを発表したものの、
歌手としては2枚目のシングル『サチオ君』が5万枚程度の
売上を記録したのが最高で、大きなヒット曲に恵まれず
いしだはこの期間、テレビドラマや他の仕事が忙しく歌手
としての宣伝に協力できなかったと述べている。
その後、歌手活動に専念しイメージチェンジを図るため
1968年6月に日本コロムビアへ移籍。同年12月に発売した
シングル『ブルー・ライト・ヨコハマ』が翌1969年初頭から
大ヒットし、同年2月10日にはオリコンチャート週間1位に
ランクイン。累計150万枚を超える売上を記録する
ミリオンセラーとなった。同年の年間チャート第3位にも
ランクインし、歌手としてのいしだのイメージを確立した。
いしだは同年末の『第20回NHK紅白歌合戦』に初出場を
果たし「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌唱。紅白歌合戦では
他にも1973年の第24回、1993年の第44回と合計3回歌唱している。

作曲を手がけた筒美京平にとっても、自身が手掛けた楽曲で
初のオリコン週間1位を獲得し、筒美は本楽曲で第11回
日本レコード大賞作曲賞を受賞した。「ブルー・ライト・ヨコハマ」
はいしだの代表曲となっただけでなく、筒美京平の出世曲ともなった。
また横浜のご当地ソングとして長く歌い継がれ、市民に
愛される楽曲となり、多くの歌手によってカバーされている。

MASK9.COM - FOR YOU, WITH LOVE.