今いまし、かつていまし、やがて来られる方からの恵みと平和が、私たちと共にありますように。アーメン。
ルカによる福音書2章8節から15節の聖書個所より、クリスマスの喜びを告げる御言葉に耳を傾けましょう。
クリスマスは光が溢れる時、光の季節です。
街の中に光が溢れます。今年も昨年に引き続きコロナ禍のため、大掛かりなクリスマスページェントなどは自粛傾向にあるのかもしれません。しかし、ちょっと賑やかなイルミネーションなどは、到る所で、昨年よりも多く行なわれているのではないでしょうか。
多くの光が一斉に灯された場所を見ると、私たちは一瞬息を飲み、しばらくその光を見続けます。たとえ小さな光であっても、闇の中に輝く一筋の光は私たちに安らぎと平和を与えます。
それはなぜでしょうか? 一言で「憧れ」でしょう。私たちの内には無いものへの憧れです。光が映し出す栄光、光の温かさが醸し出す思い遣り、親切、共感、そして愛です。また、光の持つ焼き尽くす性質に目を留めて、聖さということでもあるでしょう。
このような栄光、愛、聖さ。これが私たちの内にはありません。ですから、この光に憧れ、この光に希望を置きます。
もっとも、私たちの内に栄光や愛、聖さが、全く無いというと、確かに多少言い過ぎかもしれません。人間的な栄光はあるかも知れない。ほどほどの愛を誰でも持っているでしょう。普段からみずからの言動を律して、汚れなく、清く生きている方もたくさんいます。
しかし、問題はそういうことではなく、栄光は何よりも神さまの栄光です。愛はほどほどの愛ではなく、完全な愛です。聖さは、自分で聖くなろうということではなく、神さまのとの交わりの中で生まれてくる聖さです。
このようなものが、私たちには欠けている。ですから、光に憧れます。
そして、その憧れは、私たち罪ある人間の姿そのものを、図らずも言い表わしています。
そうは言っても、光に対しては、憧れではなく、あるいは憧れだけではなく、それを嫌う人たちがいることも確かでしょう。光を避ける、光から逃れようとする。このような人たちも、やはり、罪深い人間の姿そのものです。光に憧れる人たちよりも、より罪人らしい、と言ったら語弊があるでしょうか?まさに暗闇の中に住む人たちにとって、その闇を打ち破る光は、憎むべきものでしょう。自分の居場所がなくなってしまう危険があります。自分たちと全く異質な光は、受け入れることができません。光に対して、ねじ曲がった反応を取ります。光を憎む人たちのことを、もう少し見ていきましょう。
彼らは、しかし本当に、心から闇を愛し、光を嫌っている? つまり、命や救い、罪の赦し、愛、希望、喜び…、といったことを、何の価値もないことと思っているのでしょうか。また、罪のうちに留まり続けたいと、本心で、願っているのでしょうか。たとえ口先で、そうだと言ったとしても、心は裏腹に、絶対、そのようなことはないに違いない。心の奥深くでは、救いや希望を、追い求めていることでしょう。
しかし直接にそのように思うことができない。まして、それを言い表わすことはできません。
コヘレトの言葉7章29節に、「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」とあります。そのように、屈折して、捻じ曲がって、複雑に考えて、光を避け、闇に留まろうとする。
しかし、その姿は、光を追い求める姿の反転です。写真のポジに対するネガでしょう。根本は同じ、光を求めて悩み、苦しむ姿そのものと言えます。人間は複雑な考え方をするので、自己弁護の言葉と共に、あれこれのことを言います。しかし、心の深い処で、誰しも光を追い求めている。これは決して変わらぬ真理でしょう。
次に、まっすぐに、ストレートに光に憧れ、光を追い求める私たちに目を転じましょう。
私たちは、なぜ光を追い求めるのでしょうか? それは、私たちには自分の力によっては明るくし、暖かくし、清めるということは、できないからです。自分の力に絶望し、神さまに拠り頼む以外、どうにもならないと、とことんまで知っているからです。
もっとも、光を追い求めると言っても、光のページェントそのものをまるでディズニーランドに行ったかのように楽しむとか、光に付随するクリスマスプレゼントを楽しみにするとか、そういうことを言っているのではないことは、わかっていただけると思います。もちろんディズニーランドに行くことを楽しみにしている方には、それはそれでディズニーランドは意義ある所でしょう。光と共にある贈り物をもらうのは、嬉しいことでもあります。
ただし、ここで今、言っているのは、私たちを真実に生かすことのできる光のことです。私たちに生きる勇気と希望と慰め、そして力と忍耐とを与えてくれる光です。これは私たちのうちにはありません。それは、私たちの外から来ます。それも、上から、天からです。
今朝の御言葉にあった通りです。主の天使が、野宿をしている羊飼いたちに近づいて、言いました。「恐れるな、私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」さらに、「すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を讃美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ』」
すべては、神さまの御心による、神さまの御業です。私たちが何か善いことをしたとか、偉大なことを成し遂げたとか言うのではありません。あるいは、私たちに能力があるとか、人柄が優しいとか、そのようなことでもありません。ただ神さまの一方的な恵みにより、光は私たちを照らしてくださいます。この時の、最初のクリスマスの羊飼いたちと同じように。
そして、これは神さまの業であり、人間の業ではありませんから、私たちにとっては、あらかじめ計画を立てて、どうこうしよう、ということでもないですね。思いがけないときに、光は、救いは来ます。このときの羊飼いたちと同じように。私たちは、振り返れば、ほとんど皆、そうではないでしょうか? 何年何月何日に信仰を持とう、などと考えた人は、いないと思います。しかし、ふと、あるとき、信仰が心のうちに与えられる。信仰は、神さまによって与えられるものですから、そうなります。
そして、その後の歩みにおいても、私たちは思いがけなく、折に触れ、神さまの恵みにあずかって、歩んで来ているのではないでしょうか。それは、大きく言えば、神さまのご計画の中で、一瞬一瞬の時も支えられている、ということですね。それが、私たちからすると、思いがけないときに、思いがけないような方法で、神さまが働いてくださっているということです。そして、それを感謝します。
神さまの恵みは、嵐の前の静かさや嵐の後の平和をもたらすだけではなく、嵐の最中にあっても、私たちを支えてくださいます。苦難を必ずしも取り去られることはないかもしれません。しかし、それに打ち勝つ勝利と、そして平和を与えてくださいます。このように、光は、つまり命と救い、赦しと希望、慰めと力、愛と平和は、ただ上から、神さまから来ます。私たちに大切なことは、この光を受けること。光と絶えず共にあって、喜びに生きることです。そのようになるように、祈ることです。
クリスマスの時は、このように、光である神さまとその恵みを、再び深く思い巡らして、感謝すべき時でしょう。たとえ2000年前のクリスマスの時に、どのようなことが起こったかを知っていて、それを人に教えることができたとしても、もし自分がクリスマスにおいてはっきりと、そして力強く示されている光の中で生きているのでなければ、それは全く空しいことですね。
主イエス・キリストは言われました。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)。この光である主イエス・キリストがどのような働きをされるのか。そのことを、主がまだ人としてお生まれになる前に、洗礼者ヨハネの父ザカリアは、次のように預言していました。ルカによる福音書1章78、79節「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
このように光である主は、私たちを平和の道に導いてくださいます。その道は、また、命と救い、希望と喜び、忍耐と勝利の道でもあるでしょう。そのようにして、主はいつまでも私たちと共にいてくださいます。主はこの時、天におられます。そして、主イエス・キリストの御霊である聖霊において、主はいつまでも、どこにあっても、私たちと現実的に、実際に、共にいてくださる。
光として、肉の姿をもって、人として私たち一人一人が生きる、その所へと来てくださった主イエス・キリストは、今、聖霊において、親しく私たちと共にいてくださいます。光である主は、いつまでも私たちと共にいてくださいます。私たちは、この御方と共に、歩み続ける。光の中を歩み続けます。
それは、命と救いを喜び感謝すること。ただこの御方からのみ、慰めと希望を与えられること。神さまの恵みと幸いとを証しし、宣べ伝えること。そして、クリスマスに光として溢れている神さまの愛を覚え、私たちもこの愛に生きることです。光を心から喜び、感謝し、光の中で勇気と希望に生きる者となるように。そのことを祈り求めていきましょう。
理屈や口先だけではなく、愛を行う人になりましょう。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。」(ヨハネの手紙一2章10節)主イエス・キリストによる平和の中を、これからも、光の主と共に、歩み続けていきましょう。喜んで、希望に満たされて、歩み続けていきましょう。
2021年12月19日クリスマス朝拝
恵みと憐れみに富みたもう、天の父なる神さま、尊い御名を崇めます。
御自身の愛する独り子、主イエス・キリストを私たちの救いと新たな命のために、私たちのもとへとお送りくださった深い愛を、感謝いたします。
主は十字架の贖いを通して、今も私たちに悔い改めて、光である主と共に、光の中を生きるようにと招いてくださっています。主の深い恵みと憐れみによって、私たちは生かされています。
どうか、光の中で、光を喜び、いつまでも光である主と共にあって、主を誉め称えつつ歩みゆく者としての私たちの歩みを、支え、強め、導いてください。
御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

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