【No.62 BLACK ARROW】
贅沢にレザーを使用したスリークオーターレングスのBLACK ARROWは1957年に登場。
50年以上も前にデザインされたとは思えない洗練されたレザージャケットで、幅広い層に支持され続けている。着丈の長いレザージャケットは野暮になりがちだが、4つのポールチェーンジッパーが絶妙なバランスで配されているため、スタイリッシュに仕上がっている。フロントは無駄な切り替えのない贅沢なカッティング。

第1回東宝ニューフェイスに合格して入社すれば、あとで空きが出たときに撮影部に入れてあげると助言し、三船はその言葉を信じて渋々ニューフェイスの試験を受けることに決めた。
1946年6月、三船はニューフェイスの面接試験を受けたが、審査員に「泣いてみろ」と言われても「悲しくないのに泣けません」と言い返したりするなど、不機嫌な態度を取ったため顰蹙を買った。試験会場に居合わせた高峰秀子によると、三船の振る舞いはほとんど無礼に近く、審査員の質問にはロクに返事もしなかったというが、そんな三船のふてくされた態度は「照れ隠しだった」としている。最終的に三船は補欠で採用されることになり、応募者4000人の中から選ばれた、男性16人、女性32人の合格者の一人となった。同期には堀雄二、伊豆肇、堺左千夫、久我美子、若山セツ子、岸旗江、のちに三船夫人となる吉峰幸子などがいた。しかし、三船のニューフェイス採用の経緯については諸説ある。
黒澤明によると、審査委員長の山本嘉次郎は三船を推していたが、当時の東宝は労働組合の発言力が強く、審査委員も映画製作者側と組合側の半数ずつで構成されており、その投票による決議で不合格となったため、黒澤たちが「俳優の資質を見極めるのに専門家と門外漢(組合側)が同じ一票ではおかしい」と抗議し、結局山本が「監督として責任を持つ」と発言したことで合格になったという。東宝宣伝部の斎藤忠夫も、三船採用を山本が唱え出したが、反対を唱える人もおり、山本の主張を後押ししたのは黒澤などだったとしている。撮影監督の山田一夫によると、大山に紹介された三船を見て、頑丈そうな体格のため撮影部で使えると思い、山本に頼んで試験を受けさせたが不合格となり、審査員の一人である撮影監督の三浦光雄とともに再度山本に採用を頼み、「ニューフェイスの末席にでも彼を置いて欲しい、撮影助手が必要になれば撮影部で引き受けるから」ということで話がつき、採用されたという。撮影課の前田実によると、三船の採否で糾弾していた時に、三船の本当の人柄を知る大山の証言を山本に伝えたのが採用につながったとしている。三船本人によると、1回不合格となったあと、三浦の口添えでもう一回試験をすることになったというが、山本が拾ってくれたことについては否定し、「山嘉次先生(山本嘉次郎)は僕を落としたほうですよ。態度悪いと言って…」と述べている。
映画俳優としての活躍 編集
1946年7月、三船は田中栄三が校長を務める俳優養成所に入り、半年の養成期間を過ごした。その間に斎藤寅次郎監督の『婿入り豪華船』にエキストラでの出演が決まり、井戸の中に落ちる男性の役を貰ったが、三船の体重が重すぎて釣瓶が持ち上がらず、役を交代させられた。しかし、折から東宝争議が突入して多くのスター俳優が退社したため、三船などのニューフェイスが早くも主演級で起用されるチャンスが生まれた。三船のデビュー作は谷口千吉監督・黒澤明脚本の『銀嶺の果て』(1947年)で、雪山に逃げ込む銀行強盗三人組のひとりという主演級の役を演じた。谷口によると、三人組のうちの若い男のキャスティングに悩んでいたとき、偶然小田急の電車内で三船を見かけたのがきっかけで起用を決めたという。三船は谷口のオファーに対して「僕は俳優になる気がありません。男のくせに、ツラで飯を食うというのはあまり好きじゃないんです」と断ったが、谷口は当時着る者をほとんど持っていなかった三船に背広を新調してプレゼントするという条件を出して説得し、それで三船は出演を決めた。
1948年、デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。この映画で三船敏郎を初めて起用した黒澤明は「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時はと当時を振り返り語っている。この後、東宝争議が激化したため、撮影部転属を諦め、黒澤、志村と共に『酔いどれ天使』の舞台実演で全国を巡業する。
以後、三船は15本の黒澤映画に主演した。『羅生門』はヴェネチア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞し、『七人の侍』では英国アカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、『用心棒』と『赤ひげ』ではヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞する等、世界的に高い評価を獲得した。黒澤は三船に自分の演じたいように演じさせており、三船が立てた演技プランを採用することも多かった。『七人の侍』で演じた菊千代の演技プランも、三船のアイデアによるものだった。野上照代によると、撮影中でも黒澤は三船の演技に注文をつけたことは無く、およそ、批判的な眼で三船を見ることは無かったという。

海外からのオファー

『価値ある男』(1961年)
『羅生門』『七人の侍』『用心棒』『赤ひげ』などで黒澤明とともにその名が世界中に知れ渡った三船敏郎は世界中からオファーが舞い込むようになる。海外からの出演依頼はものすごい数になったと言われており、共演を熱望するスターも多かったが、三船は日本映画の出演を優先し、ほとんどの依頼を断っている。

1961年、初の海外主演作品となるメキシコ人監督イスマエル・ロドリゲスによる『価値ある男』にメキシコ人役で主演。この映画は主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、1962年のアカデミー賞に外国語映画部門でノミネート、1961年に『用心棒』と併せてブルーリボン賞で主演男優賞を受賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞受賞、1962年のゴールデングローブ賞に外国語映画部門でシルバーグローブを受賞、同じく1962年のサンフランシスコ国際映画祭でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出す。また、この時の国際的活躍により1961年ブルーリボン賞特別賞を受賞した。

1966年、3部門でアカデミー賞を受賞したカーレース映画『グラン・プリ』で初めてハリウッド映画に出演し、この際のステージ建設で示した日本映画人としての情熱を評価されてブルーリボン賞特別賞を受賞した。その後も、『太平洋の地獄』や『レッド・サン』、『太陽にかける橋 ペイパー・タイガー』などで海外のスターと共演する。

チェ・ゲバラは『用心棒』に感銘を受け、桑畑三十郎の恰好までするほどのファンであった。
マーロン・ブランドは飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったという。
ジョージ・ルーカスは、『スター・ウォーズ』(1977年)の初期構想で、オビ=ワン・ケノービ役に三船を起用することを考えていたが、その後にキャラクター設定が変って厳粛な雰囲気を持つ俳優が演じる必要が出てきたため、三船ではなくアレック・ギネスを起用することになった。また、三船は『ベスト・キッド』(1984年)のミヤギ役を断っている(代わりに出演した日系人俳優パット・モリタはアカデミー助演男優賞にノミネートされた)。
米国人に最も有名なのはテレビドラマ『将軍 SHŌGUN』(1980)の将軍役で、ミフネ=サムライのイメージが固定した。1980年代のアメリカの人気テレビ『サタデー・ナイト・ライブ』ではジョン・ベルーシが『用心棒』の主役の物まねで人気を博した。ベルーシは『1941』で三船と共演しているが、直接の絡みは無い。
『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』には、「ミフネ船長」なる人物が登場した。『マトリックス リローデッド』でモーフィアスが日本刀を手にして大立ち回りする場面は、三船にオマージュを捧げたものである。

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