大名、茶人、建築家、作庭家、書家

1579年~1647年3月12日

小堀政一は、幼名は作助、
「遠州」は武家官位の遠江守に由来する通称で後年の名乗りだそうです。
道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵と号したとか。

■小堀遠州の生涯
はじめ、小姓(武士の職名)だった小堀政一は、豊臣秀吉への給仕を務め、
父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅したようです。

1595年、豊臣秀吉の直参(主君に直接仕えること)となって伏見に移り、
ここで古田織部に茶道を学ぶことになるそうです。

小堀政一は「若い時に一度だけ 利休 に会った」らしいですが、
どうやらちらっと見かけた程度だったみたいです。
この頃になると、 利休 とあまり関係を持たない世代へと移行するようです。

1598年、秀吉が死去すると、父・正次と共に、
政一は徳川家康に仕えたそうです。

父・正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、
1604年、父の死後、政一はその遺領12,460石を継いだとか。

1608年、政一は、駿府城普請奉行となり、
修築の功により従五位下遠江守に叙任されるそうです。
以後、この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになるみたいです。

なお、この修築は、伏見城・仙洞御所・駿府城などだそうです。

1619年10月に近江小室藩に移封、
1622年9月に近江国奉行に任ぜられるとか。

ここに陣屋を整備し茶室も設けたようですが、
政一は、ほとんど使わなかったみたいです。

1624年1月、さらに伏見奉行に任ぜられ豊後橋(現:観月橋)北詰に、
新たに奉行屋敷を設け、
その後、ほとんどをここで暮らしたとか。

晩年になり、公金1万両を流用したとする嫌疑がかかったそうです。
しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされたみたいです。

政一は、伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし、
1647年3月12日、伏見奉行屋敷にて69歳で死去したようです。

■天下一の宗匠へ
小堀遠州は、早くから古田織部に茶を学び、
秘蔵の弟子といわれたようです。

織部没後、江戸品川御殿で徳川家光に献茶、
ここに、将軍家茶道師範となり、
天下一宗匠と称せられることとなるみたいです。

生涯に400回あまりの茶会を開き、
招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に、
延べ人数は、2000人に及ぶとのこと。

1646年の茶会で使われた道具は、
中国の美術・工芸に加えて、日本公家歌人の書や画家の作品、
茶入は当時焼かれたばかりの品、といった感じで、
「中国・日本の伝統的な美術が適度に配置されたもの」
だったみたいです。

■勤謹和緩 (朱熹【しゅき】著『小学』)
参知政事(さんちせいじ)の張観
某自守官以来、常持四字。
某、守官より以来、常に四字を持せり。

勤謹和既聞命矣。緩之一字、某所未聞。

勤・謹・和はすでに命を聞けり。
緩の一字は某のいまだ聞かざるところなり。

最後の「緩」は、急いては事を仕損じる事を戒めている。

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