三浦 知良
名前
愛称 カズ・キングカズ
カタカナ ミウラ カズヨシ
ラテン文字 MIURA Kazuyoshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1967年2月26日(58歳)
出身地 日本の旗 日本 静岡県静岡市葵区
身長 177 cm
体重 72 kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 アトレチコ鈴鹿クラブ
ポジション FW
背番号 11
利き足 右足
ユース
1973-1979 日本の旗 城内FC
1979-1982 日本の旗 静岡市立城内中学校
1982 日本の旗 静岡学園高等学校
1982-1986 ブラジルの旗 CAジュベントス
クラブ1
年 クラブ 出場 (得点)
1986 ブラジルの旗 サントスFC 2 (0)
1986 ブラジルの旗 SEパルメイラス 25 (2)
1986 ブラジルの旗 SEマツバラ 5 (1)
1987 ブラジルの旗 CRB 4 (0)
1987-1988 ブラジルの旗 ECキンゼ・デ・ジャウー 25 (2)
1989 ブラジルの旗 コリチーバFC 21 (2)
1990 ブラジルの旗 サントスFC 11 (3)
1990-1998 日本の旗 読売クラブ / ヴェルディ川崎 192 (100)
1994-1995 →イタリアの旗 ジェノアCFC (loan) 21 (1)
1999 クロアチアの旗 NKディナモ・ザグレブ 12 (0)
1999-2000 日本の旗 京都パープルサンガ 41 (21)
2001-2005 日本の旗 ヴィッセル神戸 103 (24)
2005- 日本の旗 横浜FC 278 (27)
2005 →オーストラリアの旗 シドニーFC (loan) 4 (2)
2022 →日本の旗 鈴鹿ポイントゲッターズ (loan) 18 (2)
2023-2024 →ポルトガルの旗 UDオリヴェイレンセ(loan) 9 (0)
2024- →日本の旗 アトレチコ鈴鹿クラブ (loan)
代表歴
1990-2000 日本の旗 日本[1] 89 (55)
2012 日本の旗 日本 フットサル 6 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年2月1日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 – )は、静岡県静岡市出身の現役プロサッカー選手。JFL・アトレチコ鈴鹿クラブ所属。ポジションはフォワード(FW)。元日本代表。元フットサル日本代表。
概要
Jリーグ史上最高齢の54歳でJ1リーグでプレーした経験を持つ。ポルトガルリーグ最年長出場記録保持者(56歳)[2]。
日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)[3]。
2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場した。
愛称はカズで実兄は三浦泰年。妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子、長男は俳優の三浦獠太[4][5]、次男は格闘家の三浦孝太[6]、いとこにサッカー選手の納谷伊織[7]、親戚にビームス社長の設楽洋がいる他、俳優でDISH//のメンバーの北村匠海は24親等にあたる[8]。
経歴
幼年期
1967年(昭和42年)2月26日、父・納谷宣雄[9]、母・由子の次男(長男は三浦泰年)として静岡県静岡市の葵区に生まれた[10]。母方の叔父はサッカー指導者の三浦哲治。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという[10]。1973年4月、静岡市立城内小学校に入学[11]。小学時代には、父方の伯父・納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた[12]。小学校4年生の時に両親が離婚。母方の三浦姓を名乗るようになった[13]。
ブラジル時代
1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退。ブラジルに単身で渡航し、CAジュベントスに所属[14]。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた[15]。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した[16]。
1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが最終的に翻意し、ブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである[17]。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていた中山雅史、武田修宏らと試合を行った[18]。1986年1月[注 1] には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった[16]。
1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約[11] を結んだ。チームメイトであったドゥンガからは4月9日ジュベントスデビュー戦でのプレーを叱責された[19]。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たし[11]、ヴェルダー・ブレーメン戦では、後に選手と会長という間柄になる奥寺康彦と数度に渡り激しくマッチアップ、またミランジーニャのゴールをアシストした[20]。
サントスFCでは、同じポジションにゼ・セルジオが居たこともあり、ポジションを奪い取れず、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍した[21]。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し[22]、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした[23][24]。またこの時「日本のガリンシャ」とも呼ばれ注目された[25]。
1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍[11]。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人[24][26]。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった[27]。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた[28][29]。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている[30]。
1989年2月、エドゥーが監督を務めていた、パラナ州のコリチーバFCへ移籍、チームの中心選手として[31]、パラナ州選手権優勝に貢献した[11]。好調を維持していたこの頃、チーム名は明かされなかったが、40万ドルでイタリアリーグのチームへの移籍の話が出た(三浦は後に記者から、ブラジルの選手を多くイタリアリーグに送り込んでいたスカウトマンが、当時セリエAのコモへの移籍を進めていたという話を聞かされた。)[32]。7月にはブラジルにやってきた日本代表と対戦した[33]。
1990年2月、4年ぶりに古巣・サントスFCへ復帰[11]。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断り、サントスと交渉した[34]。移籍後にレギュラーの地位を確保すると同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え[35]、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った[36]。

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