司馬江漢, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=80903 / CC BY SA 3.0

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寒柳水禽図 (パワーズコレクション旧蔵) 絹本油彩 寛政初期 卓文君像 絹本着色 司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) – 文政元年10月21日(1818年11月19日)は、江戸時代の絵師、蘭学者。
青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木春重(すずき はるしげ)を名乗り、中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。
さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介した。
本名は安藤吉次郎、安藤峻。
俗称は勝三郎、後に孫太夫。
字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。
また、春波楼(しゅんぱろう)、桃言、無言道人、西洋道人と号す。
司馬江漢は延享4年(1747年)、江戸の町家に生まれた。
江漢が長く住んだのは、芝新銭座(現在の東京都港区東新橋2丁目)である。
「司馬」の姓は、芝新銭座に因むものである。
生まれつき自負心が強く、好奇心旺盛な彼は絵を好み、一芸を持って身を立て、後世に名を残そうと考えていた。
宝暦11年(1761年)15歳の時父の死を切っ掛けに、表絵師の駿河台狩野派の狩野美信(洞春)に学ぶ。
しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、19歳の頃に紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵師となり、錦絵の版下を描いた。
明和半ばの25歳頃、おそらく平賀源内の紹介で西洋画法にも通じた宋紫石の門に入る(源内が書い『「物類品隲』の中で宋紫石のヨーロッパ的リアリズムにいたく感嘆する)。ここで南蘋派の画法を吸収し漢画家となった(当時、写実的な漢画の表現は流行の先端を行くものだった)。ただし、初めに狩野派を学んだのは確かだが、師事した順番は諸説あってはっきりしない。後に洋風画を描くに至った。源内と接点があり、彼を通じて前野良沢や小田野直武に師事したとも言われている。33歳までに、直武に洋風画を学ぶ。源内からは西洋の自然科学の知識を得、27歳の頃は源内の鉱山探索に加わった。30歳の頃、源内のエレキテル(摩擦起電機)を知った。33歳の頃、良沢の門に入り、大槻玄沢らの蘭学者に接し、37歳の時玄沢の協力により蘭語文献を読み、銅版画の製作に成功した。翌年(天明3年(1783年))自作の銅板画6点とそれを覗く反射式覗眼鏡(のぞきめがね)を売り出した。。 天明8年(1788年)春、42歳の時、江戸に参府していたオランダ商館の外科医ストゥッツエルの所持していた『ジャイヨ世界図』(フランス、1720年刊)を模写する。同年4月23日、長崎への旅に出る。藤沢より西を知らなかった江漢は、東海道から仰ぐ富士山の姿に心を打たれ、後年、数多くの富士を描いている。旅の途中で見た風景を写生する、それは「見たままを正確に写し取る」という精神に彩られていた。
長崎で一ヶ月余滞在し、オランダ通詞の吉雄耕牛や本木良永らと交流する。
また、ストゥッツエルの紹介でロンベルク商館長を訪問し、オランダ船に乗船する機会を得た。
平戸藩では蘭癖大名として知られた松浦静山に会い、所蔵の洋書類を見せられ、静山が自らたてた茶でもてなされ、平戸の街で評判になった。

さらに、生月島で捕鯨を関することが出来た。
江漢は、漁師と鯨との闘いから解体までを観察し、江戸へ帰った後に繰り返し画題としている(土浦市立博物館蔵『捕鯨図』など)。
翌年に江戸へ帰るまでの見聞は『西遊旅譚』『江漢西遊日記』にまとめ、後者ははるか後年の文化12年(1815年)に書き上げた。
長崎では初めて多量の輸入油絵を目にする。
江漢にとって次の克服すべきは油絵の制作であった。
江漢はカンバスに絹の布を使い、絵の具は当時、傘の防水に使用していた荏胡麻油に顔料を混ぜ合わせて作った。
これは元々、漆工芸品の彩色法として発達した手法であるが、江漢はそれを油絵に転用した。
蘭学に通じていた江漢は、世界地図を描いた『輿地全図』を寛政4年(1792年)に、それを改訂した『地球図』を翌年に刊行。
寛政8年(1796年)以降にまとめた版画集『ORRERY図』では太陽の周りを水星、金星、地球、火星、木星、土星が公転する図を載せ、地動説など西洋の天文学や地理学の紹介に貢献した。
享年72。
墓所は東京都豊島区西巣鴨の染井霊園、慈眼寺墓域。
法名は桃言院快栄寿延居士。
歌川広重の名作「東海道五十三次」のオリジナルを描い…

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