飯盛山は、会津若松市街の東2キロにあり、城下町を一望に見渡す小高い山で、その頂上には約1650年~1700年前につくられた前方後円墳であり、隠れキリシタンの祠もあり、地元滝沢村住民の共同墓地でもある。そして古くは古代四道将軍、弁財天、日本武尊などの神話も残り、1600年以上、連綿と会津盆地を見守る信仰の山です。ここには、白虎隊十九士の墓、各地で戦死した三十一士の墓や、イタリア並びにドイツから贈られた記念碑、さざえ堂、宇賀神堂、厳島神社、白虎隊引揚の洞門、市天然記念物の太夫桜など、数多くの神話、史跡名所が残っております。
また、ふもとには戊辰戦争時には会津藩の本陣となり、藩主松平容保公が白虎隊士に戸の口原への出陣を命じた『旧滝沢本陣』、2013年NHK大河ドラマ八重の桜のオープニングで使われた市天然記念物の『石部桜』がある。現在では、『ならぬことはならぬ』の会津精神、戊辰戦争の折に、白虎隊が自刃した地として知られあまりにも有名です。木々に囲まれ並ぶ墓石には今もなお訪れる人が多く、山腹の墓前には御線香の煙が絶えることはありません。
前編では、白虎隊記念館から会津さざえ堂(円通三匝堂)までをご案内します。
【白虎隊記念館】
当館は昭和31年に故・早川喜代次により創立され、主に「白虎隊」をはじめとする戊辰戦争関係の歴史史料を収蔵・展示している民間の史料館です。
・酒井峰治と愛犬クマの銅像
酒井峰治は白虎隊の一人で、明治以降も生き残りました。
戸ノ口原での戦いの後、敗走中に仲間とはぐれますが、知人の農民らに助けられます。
そして会津城下へと帰還する途中に愛犬のクマと再会し、籠城戦に参加しました。
明治維新後は一箕村内(現在の会津若松市一箕町)で精米業を営み、明治38(1905)年、北海道旭川市に移り住みました。峰治は生きている間、戊辰戦争時のことは語ってきませんでしたが、彼の死後、酒井家の仏壇の中から峰治が生前書き残していた『戊辰戦争実歴談』が見つかります。
これにより、白虎隊士としての峰治の名が広く知られることとなりました。
【太夫桜】
寛永3年(1626)、いつき太夫という名妓が、花見の頃この辺りで殺害され、弟の南秀という法師が姉を弔うために植えられたといわれています。現在は二代目と伝えられるエドヒガンで、石部桜とともに会津二大老桜のひとつです。市指定天然記念物で、福島県緑の文化財に指定されています。
【霊牛神堂】
永徳年間(1381~1383年)、厳島神社を建立する時に童女が赤飯を牛の背中にのせて現れ、役夫達に振る舞い、その後南に数十歩行くと姿が見えなくなった。この為その地を牛ヶ墓と、山を飯盛山と呼ぶようになった。時は過ぎ昭和48年に山主の枕元に神童が現れ「この地を祓い清めて弁天様の案内神を祀らん」と告げられ、案内神とは霊牛神の事と鑑みて霊牛神堂を建てたものである。
【子育地蔵尊】
子育地蔵尊が祀られているお堂
【厳島神社】
創建は、南北朝時代の1381年~1383年といわれ、地域の豪族・石塚、石部、堂塚の三家により社殿が造営されたのがその始まりとされています。厳島神社の名は慶応3(1868)年の神仏分離令に際して改名されたものです。創建のきっかけは、多数の童女を従えて現れた美しい霊妃のお告げによるものと伝えられ、社殿造営中も童女たちが姿を現し、人夫達に小豆ご飯を振る舞います。
ところが、この小豆ご飯がいくら食べても減らなかったことから、当地の地名「飯盛」となったという説があります。飯盛山の石段から外れた緑豊かな参道を抜けた先にあります。
隣には戸ノ口堰洞穴もあり、そばの御神木からは何百年にも渡るこの神社の歴史が感じられます。緑と水路に囲まれた空間は清々しく、神聖な気持ちで参拝する事ができます。
【戸ノ口堰洞穴】
猪苗代湖から会津地方へ水を引くために掘られた洞穴です。戸ノ口原の戦いで傷つき退却した白虎隊士たちが、鶴ヶ城の様子を確認する為、この洞穴を通って飯盛山へとたどり着きました。
現在でも農業や工業用水に使用されています。
【戸ノ口堰水神社】
堰水の守護神を祀る神社です。
【慈母子育観音(白虎清水観音)】
慈母子育観音像を安置し奉り白虎隊士をはじめ幾度の戦役等において祖国に殉じたる少年達の霊を弔うものです。
【会津さざえ堂 (円通三匝堂)】
会津さざえ堂は、1796年福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5メートル、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といいます。
当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。
その独特な2重らせんのスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるという大変合理的なお堂です。
また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りができるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成7年に国重要文化財に指定されました。
さざえ堂に入りますと、上りに一回転半、下りにまた一回転半、合計三回転することになりますが、三匝堂の「匝」は「めぐる(匝る)」という意味があり、三回めぐりながら観音様をお参りすることになります。
当時、会津より西日本方面に出かけて各地の札所をお参りするということは一般民衆には夢のような話でした。会津地方にも三十三観音札所が点在しますが、さらにコンパクトに一ケ所のお堂に集約したのです。
1780年代より、当時の民衆の観音信仰を背景に、江戸の羅漢寺をはじめ、関東を中心として全国各地にさざえ堂と呼ばれる建物が建てられました。やはりどちらのさざえ堂も観音像を安置し、一度にお参りするためのお堂です。有名なところでは群馬県太田市や埼玉県本庄市に現存しますが、会津さざえ堂の構造とは異なり、平面は方形で、中二階を用いた三階建てになっています。
明治になり、正宗寺は廃寺され、神道を信仰しため神仏分離令によって 三十三観音像は取り外されました。 明治23年には堂内の観音像があった場所に白虎隊十九士の霊像が安置されましたが、のちに会津藩の道徳の教科書であった、第八代藩主松平容敬(かたたか)公の編纂された「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられ、現在に至っています。
平成 7年(1995) 国重要文化財 指定
平成28年(2016) 日本遺産 認定
平成28年(2016) ミシュラン・グリーンガイド・東北WEB版に★一つの評価を頂き、掲載
【宇賀神堂】
五穀豊穣の神である宇賀神をお祭りするお堂です。
厳島神社の傍社として寛文年間(1661~1677)に建立されました。
会津3代藩主松平正容により宇賀神像が奉祀された御堂です。
飯盛山で自刃した白虎隊士19人の霊像を安置しており、フランス風の洋服(軍服)姿をした隊士たちの像などが納められています。木像は明治23(1890)年、隊士の墓を改修した際に合わせて造られたものです。

MASK9.COM - FOR YOU, WITH LOVE.