『べらぼう』なぜ田沼意知は斬られたのか? 江戸城の刃傷事件が現代に問いかける“正義”時代が作り上げた「正義」によって斬られた意知
 田沼親子は庶民のためにまっとうな政治をおこなっていたが、「米を高値で売って私腹を肥やしている」という噂が独り歩きしていた。さらに意知は「親の七光りで出世し、吉原通いをする放蕩息子」と揶揄された。

 実際、意知が吉原通いをしていた記録はないが、若くして家督も継がずに若年寄となったことで、周囲の反感を招いただろう。足軽から異例の出世を遂げた田沼家への風当たりも強かった。意知の死は、彼らの鬱屈した感情のはけ口となったのかもしれない。

 田沼親子を「悪」とする時代の空気の中では、意知を排除することが「正義」とされた。こうした時代の「空気」が、意知を死に追いやったともいえる。

 政言の動機が何であれ、彼の行動は、「正義」による制裁として受け取られた。しかし、それは「暴力による政治批判」が正義であるかのように錯覚される危うさを孕んでいる。これは現代のネットでの誹謗中傷にも似た構図とはいえないだろうか。

斬った政言にも斬られた意知にも共感が生まれる『べらぼう』の着地点
 『べらぼう』を観て、政言に同情する視聴者も多いだろう。父の介護に心を砕き、不器用に生きる政言の姿は、現代の「生きづらさ」を抱える若者たちと重なる。追い詰められた末の凶行に、 どこか納得してしまう自分がいる。

 一方、田沼意知もまた、史実とは異なる部分がありながらも、その本質に迫る人物像として描かれる。政言を気にかけ、精一杯引き立てようとする誠実さ。平賀源内を救えなかったことへの悔い。愛した花魁を、部下の名を借りてでも救おうとする真っ直ぐさ。それらは、主人公・蔦重の心にも強く響いた。

 大河ドラマは虚構でありながら、史実の奥底に眠る本質を浮かび上がらせる力を持つ。理想を抱き、葛藤し、刃に倒れた意知の姿は、「正義とは何か」という問いを、今を生きるわたしたちにも投げかけてくる。もし今の時代に意知が生きていたら、わたしたちは見えない真実を見抜けるだろうか?

 田沼意知も佐野政言も、志を胸に抱きながら、時代の流れに呑み込まれていった。彼らは、時代の犠牲者であると同時に、時代を超えた真実を映し出す存在でもあるのだ。刃傷事件の衝撃と見えない黒幕
 意知の死は、田沼政権の命運を大きく揺るがせた。1784(天明4)年3月24日、江戸城中で旗本・佐野政言によって斬りつけられた意知は、2日後に息を引き取る(公式の記録では4月2日)。享年36歳。史実として残るこの事件は、今なお多くの謎に包まれている。

 政言が意知を殺害した理由は、いまだ霧の中だ。表向きは「乱心」とされたが、意知だけを執拗に追い詰めた行動は、単なる心神喪失では説明がつかない。意知による賄賂の黙殺や家系図の返却拒否、鷹狩りの手柄隠しによる怨恨説も伝わる。

 田沼家の悪政への17カ条の口上書も発見されているが、偽文書ともいわれ、真偽は定かでない。そもそも、二人に面識があったかどうかさえ、記録は曖昧だ。

 『べらぼう』ではこれらのエピソードを巧みに盛り込んだ。家系図は意次が池に投げ入れたため返せなくなり、意知は政言の昇進を父にたびたび願い出ていた。鷹狩りの件は、「丈右衛門だった男」(矢野聖人)による虚言である。

 丈右衛門だった男が平賀源内(安田顕)に罪をなすりつけた過去や、源内が家基の事件の不審な点を突いた原稿が燃えるのを見ながら芋を一橋治済(生田斗真)が食べていたことから、事件の背後に治済の影がちらつく。しかし、これはあくまでドラマのフィクションである。

意知殺害で「英雄」となった政言
 史実においても、意知殺害の背後に政争の影があったとする説はある。長崎のオランダ商館長ティチングは『日本風俗図誌』で、意知の死を「改革を恐れた反田沼派の陰謀」と記しているのだ。

 意次失脚のために殺害された意知は、現代の目から見れば気の毒でしかない。しかし、当時の庶民はそうは受け取らなかった。意知の葬列には、悪口を浴びせ、石を投げる人々がいたという。

 一方、佐野政言は「世直し大明神」と呼ばれ、庶民の間で英雄視された。政言の菩提寺である徳本寺では縁者以外の参拝を禁じたが、参拝者は絶えず、花や賽銭が供えられた。粗末な墓に石塔を奉納する者まで現れたという。

 当時は米価の高騰や田沼政権の腐敗への不満が鬱積していた。刃傷事件のあとに米価が下がったことで、政言の人気はさらに高まることとなる。しかし、米価が下がったのは偶然で、意次の政策で大坂から買い入れた米が江戸に届いたためであった。

 ドラマでは蔦重が意知に進言した「幕府が米を売るのは政(まつりごと)」が現実となったのだ。 NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第27回「願わくば花の下にて春死なん」では、田沼意知(宮沢氷魚)が佐野政言(矢本悠馬)によって斬りつけられるという衝撃のラストとなった。

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 ここまで意知はひときわ鮮烈な存在感を放ってきた。父・田沼意次(渡辺謙)の片腕として抜群の政治的才覚を発揮し、陰謀と私怨が渦巻く江戸城内で刃に倒れた若きエリート官僚。意知を取り巻くドラマオリジナルの筋立てと、実際の歴史とのギャップは、むしろその本質を浮き彫りにしているように思える。

 また、意知殺害事件は現代のわたしたちにも「正義とは何か」という問いを投げかけている。ドラマと史実の違いをたどりながら、その核心に迫ってみたい。

吉原の花魁・誰袖と田沼意知の関係
 劇中での意知は、吉原の花魁・誰袖(福原遥)と密やかな取引を交わす。蝦夷地における松前藩の抜け荷(密貿易)摘発をめぐる、危うい駆け引き。誰袖は密貿易の証拠をつかむ代わりに、自らの身請けを意知に託す。意知はその願いを静かに受け入れる——という展開は、物語として非常に切なくスリリングだ。

 しかし、これは史実とは異なる。誰袖と意知の間に取引の記録はなく、これはドラマオリジナルの創作だ。実際に誰袖を身請けしたのは、田沼意知ではない。ドラマの中で意知の代わりに身請けしたと描かれる勘定組頭の土山宗次郎(栁俊太郎)その人である。

 ドラマでも、意知が現れるまで誰袖の贔屓客は宗次郎だったが、当時の誰袖は蔦重(横浜流星)に身請けを迫っていた。

 蔦重が妻・てい(橋本愛)に「出会ってしまった」と告げたように、誰袖と意知も「出会ってしまった2人」だった。意知は「花雲助」と名乗り、誰袖に「雲助袖の下にて死にたし」と愛を告げる。2人で花(桜)の下、月見をする約束の日、悲劇は訪れる。

『べらぼう』で描かれた「蝦夷地問題の前夜」
 『べらぼう』の中で、意知は松前藩の抜け荷(密貿易)摘発や蝦夷地の幕府直轄化を主導するが、史実にその記録はない。

 とはいえ、『べらぼう』がすべて創作というわけではない。1783(天明3)年、仙台藩医・工藤平助の『赤蝦夷風説考』が幕府に提出され、蝦夷地への関心が高まりつつあった。父・意次が平秩東作(木村了)を蝦夷に派遣したのは意知殺害の前年、探検家・最上徳内はその翌年である。直轄化への動きは、すでに水面下で始まっていたのだろう。

 やがて意次の失脚で蝦夷開発は頓挫し、11代将軍家斉の時代、松平定信(寺田心/井上祐貴)が直轄化政策を進める。実際に蝦夷地が幕府直轄となるのは15年後の1799(寛政11)年。定信は失脚し、意知も意次もこの世にいなかった。#viral #trendingvideo #kpop #news #trending #japan #jpop #viralvideo

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